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「働く」ということ

 8日の集会(右の告知板参照)で上映する予定の映画の下見をしました。インドの児童労働の実態を丹念に、丹念に拾ったドキュメンタリーです。ぜひ8日に見に来て頂きたいのですが、それを見ていて、さとうきび、マンガン、レンガ、ばらの花…子どもたちのきびしくつらい労働に支えられて生み出される製品の数々を確かめながら、「労働」ってなんと罪作りなんだろうと感ぜずにはいられません。いや、罪作りなのは、労働それ自体ではないのでしょう。労働を、権利でもあり人間的な行為でもある労働を、搾取と利得の手段に変える社会のありようこそ、問われるべきです。

 日本国憲法には、こんな条文があります。

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
 
 知ってましたか、労働(勤労)が国民の「権利」だということを。


働かなければ食べていけない、働かなければ親に、家族にとがめられ、社会の冷たい視線を浴びる…自由な社会のはずだけれど、しかし間違いなく強いられ、義務づけられたこととして、私たちは仕事をします。「権利」として働くなんて実感は、まずない。
 でも、労働は「権利」なんです。なぜ憲法は労働を「権利」としてうたったのか。いろんな歴史と背景がある話です。ただ、働けない、働く場がない、自分を犠牲にしないと働けない…そんなときには、実は私たちは憲法に依拠して「働くんだ」「働く機会を」「人間らしい労働を」と主張できるということは、本当に貧しく非人間的な労働が広がっている今、とても大切なことのように思えます。

 で、インドの児童労働です。ここでは、子どもたちにとって労働は「権利」どころか「苦役」です。そしてなお、子どもたちにとっては労働という「権利」に優先して、学ぶこと、育つことという権利があります。子どもたちにとっては、労働は、学ぶこと、育つことの一助としてのみ、その意義を認められます。子どもたちが学び、健康に育つ機会を奪ってまで行われる労働は、「権利」でないどころか、子どもたちの今日と未来を搾取する行為です。
 インドのような「児童労働」は、告発され、正され、廃止されなければならないと、映画は強く訴えています。そうだ!と思います。しかしまた、こうも思います。労働は、適切に配慮され、位置づけられるならば、教育や成長の大切な糧となりうると。その意味では、およそ労働から徹底して切り離された日本の学校教育は、労働によって破壊されるインドの教育とは違った意味で、子どもたちから労働が持つ価値と可能性を、したがってあえて言えば「勤労の権利」を奪い去っている、と。

 憲法は、「勤労の権利」を決して成人だけの権利としては書いていません。27条の3項には、こうあります。

3 児童は、これを酷使してはならない。

 そう、酷使しない。この酷使は、英文ではexploit、つまりむしろ「搾取」と訳されるべき用語です。憲法は、原理的には児童の労働それ自体を否定はしていません。
 世界に広がる巨大な貧困と、日本の社会によどんだ花を開かせた「豊かさ」と。その対極の中に、インドと日本の子どもたちの対照的な姿があります。世界中の子どもたちが、等しく、搾取されることも労働の機会を奪われることもなく、適度な労働から知的・身体的な刺激と学びの素材と社会的な素養を受け取りながら、伸びやかに育っていけますように。2008年の憲法記念日に、そんなことを考えました。

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