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2013年、八丈島から

 ちょっとしたきっかけで、八丈島で年を越すことになりました。
 初めての訪問です。同じ東京都の島(町)なのですが、ほとんど予備知識もなく小さな観光スポットといったイメージが先に立っていました。もちろん、観光は今この島の大切な“産業”であるのですが、しかし訪ねてみると、それだけではありませんでした。
 面積約72㎡、人口が8,000人をわずかに超えるというこの島の暮らしは、華やかな豊かさとは縁遠いものでした。比較的に温暖な気候の一方で、東京本土から300㎞近くも離れ、さらに火山が生んだ島ならではの土地の貧しさもあるのでしょうか、厳しい暮らしが続いてきたことをしばしば感じさせられました。でも、この島には歴史があります。そして、人の息遣いも。
 そのことを強く感じたのは、旅の最後に訪れた歴史民俗資料館でした。1939年に建てられた支庁舎の建物をそのまま使っているというこの資料館、建物自体が国の登録文化財です。ほんとうに古い平屋の建物、よく残しているものだと思いますが、この建物には小さな島の歴史が詰まっています。
 八丈島には、縄文時代の遺跡があります。これは驚きでした。資料によると、今の関東だけでなく、近畿、あるいは北陸からも人や技術が伝播してきたとのこと。その後、いったんは住人は途絶えたようですが、再び多くの人が住まうようになったのは江戸時代、この島が「流刑」の島となってからのこと。流刑で八丈島に移り住んだ人は1,900人に上るとされています。最初の公式の記録のある流刑囚は、関ヶ原の戦いで石田側に付いた宇喜多秀家。流刑囚には秀家のような武将や“知識人”も多かったらしく、たとえば流人が伝えたといわれる絹織物「黄八丈」などのように、それはそれでこの島の歴史に一つの色を添えているのですが、もちろん流人はそうした人たちばかりではなかったでしょう。流刑の島が社会と生業を維持していくことに少なからぬ苦労を強いられたことは、容易に想像できます。
 資料館に陳列されていた資料は、宇喜多秀家にまつわるごく一部を除けば、本当に貧しい庶民の暮らしと文化そのものです。けれども、たとえば釣糸をなう道具も、ツバキ油を搾る機械も、たくさんの古い土器も、縄文時代の人骨すらも、なんだかとても強いメッセージを発していました。島の自然と歴史の厳しさが鍛えた、そんな強さです。
 ちっとも飾るところのない資料館の風情は、少しだけ触れることのできた島の人たちの気風とも重なり合って、この島がたどってきた歴史の重みを感じさせてくれていました。老いた母を連れての訪問でしたから、とてもじっくりと、とはいきませんでしたが、でも好きになりました。資料館も、そして島も。

 今日1日、島の南端近くにある湯屋から初日の出を見ました。残念ながら、太平洋の水平線に接してたなびく雲間からの朝日でしたが、それもまたよし。これからの1年には、むしろふさわしい。この私のブログをご覧下さっている皆さん、新年おめでとうございます。良い年にしましょうね。

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